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師崎の左義長祭り

2012年1月22日、知多半島の先端に位置する「師崎(もろざき)」へ「左義長祭り」を見に行った。

名鉄で河和(こうわ)まで行き、そこからバスで終点の師崎のフェリー乗り場まで行き、まずは先端の「羽豆神社」を参拝した。

 

羽豆神社は昨年1月9日にも参拝して、そのとき、この左義長祭りを知った。

 

お祭ではあったが、神社は特別な飾りがあるわけでもなく、いつもと変わらないたたずまいであった。

 

師崎へは、10時過ぎに着いたが、お祭は、13時開始、ということで、とりあえずは会場の下見をするために港をあるく。


土地のおばあさんの話では、昔は港にずらっと並んだ船に大漁旗がはためいて壮観だった、とのことだが、今は、何隻かの船に大漁旗がはためくのみだ。

また、土地のおじさんに祭りのスケジュールを聞いて見ると、11時から「神護寺」で式典があってカメラマンはみんなそこへ行くよ、との情報を得て、すでに10時50分で、急いで集落の中へ入っていった。

 

カメラマンがうろうろしている路地があったのでそこへ入ると、むこうに大漁旗が見えたので、そこを目指すと、大当たりで、そこが神護寺であった。

 

境内へ入ると、大漁旗が頭上にはためき美しい。


この神護寺では、祭りの5地区の役の人たちが、左義長のお札や注連縄の山に火を点ける種火を貰い受けて各地区へ戻っていく。

境内に張ってあった説明書によると、この神護寺は、白山信仰を確立した泰澄(たいちょう)大師が8世紀始め頃開いたそうで、文明年間(1469~1487)に再建された記録が残っているそうだ。

羽豆神社の別当寺院(神社に付属して置かれた寺)として栄え、神宮寺と言われていましたが、江戸時代の中頃に現在の神護寺とかわった、ということで、羽豆神社と結びついたお寺。

境内には、猟師町にふさわしく「魚霊観音大菩薩」も祀られている。

大きな蘇鉄の根本には、大黒・恵比須も祀られていた。

土地の若い子が着物で着飾って祭りに参加するのかなあ、とおもったら、「戦国姫隊」の「おね・まつ・吉乃」の3人であった。

 

会場へ戻る途中、集落の中で変わった「蘇民将来」と「元三大師」のお札が玄関先に貼られているのを見つけた。

会場の燃やされるお札の山の中に蛭子さまのお札もあった。

左義長は、的場、鳥西、鳥東、栄村、荒井の5地区で行われるが、羽豆神社に近い的場地区から順に点火されていく、ということで、まずは的場地区へ向った。

前日は雨だったが、この日はいい天気に恵まれ、厚着をしていた私は暑いくらいだったが、ふんどしいっちょうの若衆は海水をかけられ、気合十分であった。

 

愛知県観光協会のHPによると、

 

「一年の無病息災を祈願する師崎の冬の風物詩。

 身を切るような寒さの中、裸の男たちが高さ10m幅3mもの大漁祈願大幟を立て、正月飾りとともにこれを焼き尽す勇壮な行事です。

 和紙で作られた長さ10m、幅3mの大のぼりで判じ物(はんじもの)が書かれている。

 大のぼりの張り綱を引っ張る者、大のぼりの根元を支える者、この両者の呼吸がぴったり合って、火のついた大のぼりが倒され、また起こされたりして、あたり一面は焔と煙でいっぱいになり、今年の大漁を祈る漁師の心意気が見物している人たちの胸にひしひしと伝わってくる。」


大幟を倒す前に、船をかたどった御輿に火をつけて燃やしながら海へ入っていくが、これは日露戦争の戦勝を祝って始まったそうだ。

大幟を倒したあと、太い竹の旗竿を立てては倒し、竿が折れるまで何度も竿をバタン、と倒す。

竿が折れ、若衆が退場すると、餅撒きがあり、竹竿の先に針金で吊り下げたアルミホイルで包まれた餅も限定100本配られて、多くの人は餅撒きのほうへいっているので、こちらは私も、姫隊の「吉乃」さんからいただくことができた。

 

とはいえ、次の会場へ行かねばならず、餅を焼いている時間もないし、手に持っていてはビデオも撮れないので、向こうからやってきた子供にあげた。

鳥西、鳥東、栄村の3地区は、この祭りをになう25歳以下の若者の数が足らないため、大幟は出ず、お札や正月飾りを燃やし、餅撒きする行事のみ行われている。

 最後に、荒井地区の大広場へ向った。

こちらも同じように行事は進行するが、中京TVの取材が入っていて、若衆たちが折れた竹竿をかかえて取材チームへ突進したりして面白かった。

昼飯ぬきで祭りを見物したので腹もへって、食堂へいこうと歩いていると、夕暮れの光線の加減か、向こうのほうにやけに大きく神島の姿が見えた。


羽豆神社のほうへ行って、神島をみると、ちょうど志摩半島と渥美半島の中間にくっきりとその姿があった。